Chim↑Pom事件寸感  村松恒平

Posted on 10月 27, 2008

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 広島市の上空で芸術家集団が飛行機の煙を使って「ピカッ」という文字を描いたことが分かり、被爆者から原爆の閃光(せんこう)を連想させるとの批判を受け、芸術家集団のメンバーが24日、広島県原爆被害者団体協議会ら5団体に謝罪した。
(時事通信社 – 10月24日)

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Chim↑Pomという集団によるこの顛末について、詳細は知るところではないが、いちばん単純な見方を提示しておきたい。

それは、このアートはピンぼけだ、ということだ。
なぜピンぼけかといえば、「ピントを合わせなければいけない」という認識がないからだ。
それは方法論としてピントを合わせないということではなく、ただ自分たちが何をやりたいのか、やっているのかわかっていないで、「芸術ってこういう感じだよねー」となんとなくそれっぽいモノをコピーして、それっぽいモノを作っているからだ。

表現とは眼に見えない焦点を作り出す作業なのである。

「私」がいて、「あなた」がいる。「私」が今書いていることが、一つのきれいな焦点に収束すれば、それは再び拡散して「あなた」の心というスクリーンに像を結ぶだろう。
もし、焦点がぼやけていたり、方向がズレていれば、それはぼやけた、あるいは歪んだ像を結ぶだろう。

つまり、焦点が純粋な点になったときに、最も精度の高い像が相手に手渡せる。

作品の切実さ、リアリティは、「なぜ私はそれをするのか」「誰にそれを手渡したいのか」という点にある。

さらに、「なぜ今それをするのか」「なぜここでそれをするのか」というような点もきれいな焦点を結んだときにクリアな表現が生まれる。

今回のChim↑Pomという集団が「なぜそれをしたか?」 と問えば、「お騒がせをしたかった」という答以上のものは心に響いて来ないのである。
人の心を何か波立たせる石を投げ込めばアートなら、隣の家に石を投げ込んでガラス窓を割ってもアートである。

犬を餓死させるアートとかあったようではありませんか?
「そういう残酷なことができるあんたは何様?」とか、「それで結局何が言いたいわけ?」とか、単純な嫌悪感とか、いろいろ受け取る人の心にインパクトや波紋は広がる。
でも、それは乱反射しているだけで、不快で、作家によって完全にコントロールされていない。だったら、人がたくさんいるところに汚物を投げ込んだって、たくさんの心理的な波紋を得ることができる。

それをアートと呼ぶかどうかは、まず単なる定義の仕方である。
アートの定義を提示しないで、アートであるかないかを言っても仕方ない。

こういう人の神経を逆撫でする行為は、一般的な神経を持った人はしない。そして、アーティストは一般的な神経から逸脱していてもかまわないし、むしろ、そのほうがいい場合がある。
しかし、一般的な神経を逸脱することを仮にアートの必要条件としても(これも議論がありそうだが)、十分条件ではないと僕は考える。

では、十分条件とは何か。それを今、焦点を結ぶ、という言い方で述べている。焦点の話を続けよう。

「なぜ今か」
展示のスケジュールに絡んだものであっただろう
本来、広島に原爆が投下された8月6日に行われるのがベストだろう。
そうすれば、よりテーマとのタイトな関係を作り出しただろう。
したがって、これも焦点を結んでいない。

「なぜここで」。
これは広島で行う理由はあったと言える。しかし、ここだけリンクしていることはかえって事態を悪くした。
たとえば、これが東京やニューヨークの上空で行われれば、まったく別の効果と意味を持っただろう。それなりの下ごしらえがなければ、完全にスカだったかもしれないし、もっと大変な社会問題になったかもしれない。
つまり、場所も重要な焦点なのである。

「誰に手渡そうとしたのか?」
平和的な意図を述べながら、結果的に市民や被爆者たちの感情を逆撫でし、さまざまな反感を喚起した。
もし、平和を訴える意図なら、むしろ世界に向けて発信すべきだろうと思う。
それは被爆国として、すっきりとしたベクトルである。
「ピカッ」という日本語ではなく、英文字であるとか、絵文字であるとか、このような直接的なメッセージではなく、シンボルでもよかっただろう。

つまり、このようなコンセプチュアルなアートは、コンセプトの段階でいろいろな可能性があって、どこで成立するか、という微妙な焦点を探すところに作家の仕事がある。別に自分で飛行機を操縦したわけでもないだろうし、他に何の芸もないのである。焦点を探すことくらい最後まで詰めろよ。

世間でこのことを論ずる人は、すぐアートと社会規範の関係の話をするが、まずはっきり言わなければいけないことは、この人たちのやっていることはアートとしてダメ、ということだ。
そのことをさえはっきりさせれば、後は当事者たちがどういう成り行きになろうが、大したことではない。

この事件の副産物は、現代アートは、ピント外れのモヤモヤのまま、なんとなくなあなあで流通しているという事態を暴露してしまったということである。

切実な「私」も「あなた」もいない。「今」でも「ここ」でもない。裸の王様のような現代アートをわかったふりしてモヤモヤと受け渡しするのはいい加減でやめたほうがいいと思うのだ。

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Author: 村松 恒平
Profile:村松恒平 1954年東京生まれ。【DRAGON ART CREATOR'S REVIEW】編集人。編集者、ライター、芸術家。著書に『プロ編集者による 文章上達スクール』シリーズ(メタブレーン)など。面白いプロジェクトや、お仕事募集中!
Data: 2008 年 10 月 27 日 at 8:38 PM

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