「意図されたものとされないもの」 伊藤寛明
Posted on 3月 3, 2008
都市部で生活していると、身のまわりを「意図されたもの」に囲われていることに、たまに息苦しくなってくることがある。街中を歩いていても、あらゆるところに設計者やデザイナーの意図を感じ、モノの納まりに「へー」とか「ほぉ」とか「やるねー」と関心する時もあれば、そんな日々がしばらく続いたりすると、ある時から飽和状態になり、「もういいよー」とうざったく感じる時もある。新聞に挟まれてくるデザイナーズなんとかの折込広告や、雑誌のデザイン関連の記事さえも身体が受け付けなくなるのである。
一方で、意図されずにそうなってしまった(かのような)モノのあり方を街中で見つけた時には、小躍りして喜んで思わずカメラを向けてみたりもする。要は、意図されたものとされないもの、そのバランスの中で日々生きているのだなとつくづく思う。
休暇と称し、都市部から自然の多いところへ行く。海を眺めたり、田んぼのあぜ道を歩いたり、森の木々の間に佇んだり。総体的に自然といわれるものは、人の意図が入っていないからこそ、癒されたり、リフレッシュすることが出来るのだろうと思う。もしくは、意図されないものに惹き付けられるのは、都市部に生きる人間の性なのか。厳密には、田んぼや山林には人の手が入っているから少なからず意図は入っているのだろうけれど、自然の、人の意図では管理しきれない部分が、四季を通してその意図をどんどん薄めていく。だから意図されてあっても癒されたりするのだろう。
もちろん今では地方の幹線道路沿いは、意図されたもの、しかも決して見栄えの良いとはいえないもので埋め尽くされているけれど、逆にキッチリカッチリとデザイナーにデザインされていないユルユルな感じが、まだ気持ちにゆとりを生むのかなと思ってみたりもする。
これは、設計という「意図する」行為を日々行っている中での、自問自答に過ぎないけれど。
「意図されないもののように意図することが果たして出来るのだろうか。」
そんな疑問から発して、この春、作品を創ってみたいと思っている。
意図されない感じを、いとかんで。(←それが言いたかっただけか!)
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