素の自分を掴み取れ よいち

Posted on 2月 3, 2008

電線に縛られる空はそれでも遠い

陽が陰ると、しんしんと冷える空気に思わず、足踏みをする。信号待ちの歩道で、伝統的ともいえる寒さへの反応。
それでは物足りなくなったか冷え込みで理性が吹っ飛んだのか、ある秋の夕暮れに、ピンヒールの靴のまま突然アスファルトの道を全力で走り出した。信号を渡ってもなお走った。

それをきっかけに、しょっちゅうそこら辺で走るようになった。大抵は通勤の途中や買物の途中。体脂肪対策などではない。あることに気がついたからである。
「あの角まで走る」とか、「50mは走る」などという目標は持たないし短距離だからって息も止めない。
むずむずとした衝動を捉えたらすかさず駆け出して、脳の中にむわっと快感が湧いた瞬間『そのとき』に足を止めるのが肝要である。

私はその瞬間の自分を、最も素の自分だと思う。
性格も価値観も生き方も私そのもの、ただし何の感情も持たないフラットさ。感情をかきたてたり吸い込んだりする構えすらしていない状態。
芯はある。なんでも来い、である。機嫌は若干良い。
そして、その状態でこそ芸術作品の前に立ちたいと強く願うのである。

作品の前まで疾走できればいいが、美術館の中で作品の数だけ無心に駆け回るというのは現実的ではない。その状態を身体で覚えて、好きな時に再現できるよう刷り込んでおく方がいいのだ。
緊張が苦手だからって、舞台の上に布団を敷いておく音楽家がいないのと同じである。

作品の展示にはキャプションというとてもとても気になる存在がついて回る。展覧会コンセプトや作家の画歴が展示場の入口に掲示してあることもある。
なんて、重くのしかかる紙一枚二枚。
むろん無視する気はないが、まずは何も先入観や身構えのない状態で作品に向き合いたいというのが十何年も前からの私の願いであった。
可能な限り、文字をひとつも読まずに観て回ってから、あらためて文面や作家に目を向けてゆっくり巡回し直す。それができれば一番良い。

それでも己の無知無学に不安に揺らいでいた頃の私の、そうした観賞の姿勢を応援してくれたのが「なぜ、これがアートなの?」という展覧会だった。
水戸芸術館が川村記念美術館、豊田市美術館と共同で企画し、同名の著作で有名なアメリア・アレナス氏のバックアップのもと1998年から1999年にわたり開催された展覧会である。
もっとも、そういった事情はあとで知った。
何よりショッキングだったのは、何度も足を運んだことのある水戸芸術館の会場内、有名な作品も多く展示されているにも関わらずキャプションが一切掲示されていなかった。当時の私の言葉でいえば「とっぱらってしまった」。
ああ、これでいいのかと思った。肯定されたような気がした。

しかしながら、キャプションとそこにある作品背景や作家の人生はその後も常に気になる存在だった。見まいとしてもつい覗き込んで、果たしてどこからどこまでが自分本来の思考、視点なのかと疑問を抱いた。
とにかく私が最も欲するところの観賞体験とは切り分けなくてはならない。まるで自由に作品の前で泳ぐような、あるいは自意識と感情の海に深く潜っていくような体験、それは一旦作品の前で逃してしまうとなかなか手に入らなかった。

また展示サイドにも、作品は観賞者の自由に委ねるという方法論の一方、作品の背景に関する知識は観賞を深める上で必要という方法論もあり、それらは拮抗しつつたびたび議論を呼んでいることも知った。ギャラリートークにおいては「対話型観賞」と「解説型観賞」と呼ばれる。

美術を学ぶ身になり、一観賞者から観賞者と作家をサポートする立場になり、さらに自分が値踏みさえしなければならない身になりすると、文字列を目に しなくとも作家の経済的背景から生み出される価格やら、技量やら社会的立場やら、考慮せざるを得ないことが多く、仕方なかった。

私の、ただ感情を揺さぶられるというひたすらシンプルな観賞の楽しみはどこへいったのか。

そんなある冬の日に、寒さのあまり走った。これだと思った。
好きな分だけ走って快感を得て、そこで必ず足を止めるのは、それ以上走ると余計な欲が出てくると知ってのこと。
走りやめた時の私は、なんの感情もなく計算もない、32年間生きてただここにいる素の私それだけだった。

ああ、このままビューンと美術館やギャラリーへ飛びたいと、何度思ったろう。
その代わり私は今日も白い息を吐いて突然走り出す。
近所の人が眉をひそめようが、ヒールを排水溝にひっかけようが、走る。
毎日、頭や身にまとわりついてしまうややこしいものを、毎日、片っ端から道に落としていく。
この感じを忘れず、掴みとるため。

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Author: よいち
Profile:元ギャラリー運営スタッフ。 各地のイベントにこっそり出没中。
Data: 2008 年 2 月 3 日 at 8:48 PM

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