批評を考える 村松恒平

Posted on 11月 9, 2007

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「美術の世界」というものがあるとすると、僕はその隅っこのほうにいるアウトサイダーだといえる。

その隅っこのアウトサイダーから眺めていても、美術の世界は狭いなあ、ということが実感されてきた。そもそも美術関係の大学は限られている。そうすると、4,5人関係者が集まると、だいたい大学の先輩後輩の関係が存在することになる。そのほかにグループ展などのラインもあり、活動的な人同士はあっという間に知り合いになる。
「知り合いの知り合いの知り合い」くらいまでいくと、ほとんど全美術界を網羅できるのではないか。

こういうところで、公正な批評をするということはたいへん難しいのではないか、ということをずっと考えていた。
映評や書評であれば、批評者は作者と会うことは稀である。もちろん、地位や影響力のある批評家になれば、それなりのしがらみが出てくる。映評や書評だってそういう意味で決して公正であるとは言えないのだが、美術はもっと狭い。
なにしろ個展にでかければ本人がいるのである。
本人がいれば、挨拶もするのである。そして、初対面でもすぐに共通の知人のことなどに話が及び、親しげに会話をする。そうすると情も移り、また狭いコミュニティの住人であることを確認するのであるから、「**氏も若いときは情熱的に新しい美の領域を開拓して来たが、今度の個展の創造性の感じられない悲惨な自己模倣には胸を塞がれる。成功しても耄碌はしたくないものだ」というようなことは書きようもないのだ。

そうすると、批評者は自分が「感じたこと」をベースに書かなくなる。作者の実績やデータ、それまでに作者について書かれた他人の記事などを確認して書く。それから、その作者の作品を何年も何十年も追いかけて見続けている場合には、そのことも必ず強調しなければならない。
初期の作品から現在に至るまでの変遷を自分は見続けたということを強調しつつ、知的で的確な語彙と流麗なレトリックで、一人の作家の発展と進化の歴史を物語にして見せなければならない。
それが「感じたこと」の代用になる。

こう書くと、激しく否定しているようだが、そうでもない。
むしろ、それでいいのではないの、と思うようになったから、ついにこの一文を草しているといえる。
「感じたこと」で批評を書け、というのは、プロレスに毎度セメントマッチを求めるプロレスファンのようなものだ。
美術批評なんて、どうせ関係者しか読まないのである。関係者が関係者について書いて関係者が読む。企業でいえば、社内報のようなものである。
それにはそれなりの機能があるだろう。

みんなツルんでいるのである。
芸術や表現はもともと、はみ出し者の領域であると僕は思っている
それをもっと、歴史的に容認された基準が積み重ねられているもの、知的で高級なもの、一つのコミュニティの中で確認しあえるもの、ビジネスや行政の基準で測れるもの、のようにふるまう人が出てくるのは仕方ないことだ。ツルめばいいさ。

はみ出し者もまたムラを作る。
僕はそのムラからもまたはみ出していたい。

昔の人は言いました。
「連帯を求めて孤立を恐れず」

表現者なんて、どうせ孤独なんだからさ。
楽しくやろうぜ。

【写真は村松恒平『人々(輪郭を失っていく)』部分】

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Author: 村松 恒平
Profile:村松恒平 1954年東京生まれ。【DRAGON ART CREATOR'S REVIEW】編集人。編集者、ライター、芸術家。著書に『プロ編集者による 文章上達スクール』シリーズ(メタブレーン)など。面白いプロジェクトや、お仕事募集中!
Data: 2007 年 11 月 9 日 at 2:24 PM

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