建築の美しさ 伊藤寛明

Posted on 4月 8, 2007

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学校を出て設計事務所で働き始めた頃、建築家協会という団体が主催したとある勉強会に参加した。その後に懇親会があり、早大教授の穂積先生がニコニコしながら会場をプラプラ歩いていたので思いきって話しかけてみた。
「先生は建築の美しさ、もしくは美しい建築ってどういうものだと思いますか?」
今から思えばとても無謀な質問だったと思うけれど、それは若気の至り。先生は人なつこい表情一つ変えず、近くの書棚にあったル・コルビュジエの写真集を手に取ってパラパラとめくりながら言った。
「その質問に答えるのはとても難しくてね。このコルビュジエという近代建築の父と呼ばれる人でさえ、常に美しい建築を創ろうとして創ってきたけれど、たぶん最後まで答えは出なかったと思います。私も今ここで答えが出せるとは思えないので、今晩寝ながら考えましょう(笑)。」
以来、建築の美なる言葉を聞くたびに、先生の名(迷)回答を思い出す。

世界中くまなく建築を見てきたわけではないけれど、心を動かされる程美しい建築物にはたまに出会う。ガウディのサクラダファミリア教会(バルセロナ)やブルネレスキのドゥオモ(フィレンツェ)等の有名な建築だけでなく、メキシコ・ティオテワカンのピラミッドやベトナム・フエ旧王朝の宮殿等の遺跡であったり、普通の街中にひっそりとたたずむ名もなき町屋や商家だったりもする。
どちらかというと近代以前の、古く人の手の跡が染み込んで使い込まれた空間や、その時代にあり得たこと自体、想像を絶する技術や精度、完成度に触れた時に、その総体として「美しい」と思うことの方が多い。
そう考えていくと「かたち」や「プロポーション」の美しさというのも、美しさの中の一つの要素でしかないようにも思えてくる。
ギリシアからローマ・ルネサンスを経て近代に至るまでの中には、黄金比やモジュロールといった「美の基準」がないこともないけれど、果たしてそれが絶対的な美、つまり誰が見ても美しいと思う基準かといえばそれはそれで疑わしい。美しいと言われているモノに接してきたかどうかの経験量の差こそあれ、人それぞれの「美の基準」があり、それは相対的なものだとも思う。

なーんてことをつらつらと思い巡らせながら、ふと思った。もし仮に絶対的な美が建築にあるとするならば、それは「人の美しさ」なのではないだろうか。
美しい建築とは一つの歴史的事件であることは確かだ。その建築に関わる人の美しさとは、言いかえれば人の純度の高さみたいなもの。純度の高い発注者、それに呼応出来るほどの純度を持った設計者、そしてその時代の技術力や人を集めて動かすことの出来る高純度な施工者、三者の純度の高さが美しい建築を生むのではないだろうか。

そう考えていくと、中世の教会や社寺建築が美しいというのも、関係者の純度の高さがなせる技だと納得出来る気がするし、時の権力者や王様の一途な思いによって建築されるものもしかり。建築に関わる人たちの純度の高さがぶつかり合う時に、美しい建築という事件が起こる。近代以降は人の純度が低くなったのか、いろんな不純物が混ざって乱立する建築の中には、あまり美しいものが見いだせないことにも合点がいく。

建築のことを「凍れる音楽」と言ったのは誰だったか。純度の高いピュアな音楽のような建築を創るには、まずは雑物の混ざった自分自身をキレイにしてから設計を始めろということか、と少し襟を正してみたりなんかして。

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